1960年ごろまでは
北米のスポーツ・バイクの市場は殆ど
英国車のものでした。
BSA 650 RGS ( 1962年式 650cc 2気筒 )
北米現地のメーカー、
ハーレーやインディアンは
ツアラーがメインだったので殆ど
競合しなかったのです。
インディアン チーフ ( 1948年式 排気量1200cc )
BSAと
インディアンを比べると同じ二輪車なのに、全く
別次元の乗り物だと言う事が判ります。
しかし、1960年ごろ迄には、新興のメーカーである
HONDAは
北米市場に手を伸ばし始めました。
HONDA CB72 TYPE2 ( 1961年式 4st 2バルブ 並列2気筒 )
(この車両には
シートとして
Y部品と呼ばれた
レース用部品が付いています。)
当時、
英国車は
トライアンフに代表される
大排気量車を輸出の中心にしていました。
トライアンフ TR6 ( 1960年式 650cc 4st 2バルブ 並列2気筒 42ps/6500rpm )
トライアンフは日本の少排気量車など眼中に無かった様ですが、
技術の差を見せ付けようと
ボンネビル・ソルトフラッツで速度記録に挑戦しました。
1956年 疾走するテキサス・シガー ( トライアンフ・エンジンを2基搭載 )
345km/hの世界記録を樹立しました。( この記録は公認されませんでしたが、トライアンフに取って、
それはどうでも良い事でした。)
トライアンフはすぐさまこの
好機を利用しました。
1966年、
OHV 8バルブの新型車に
ボンネビルの名を冠し、大々的に販売したのです。
トライアンフ T120 ボンネビル ( 1966年式 OHV8バルブ 650cc 46ps/6500rpm )
この
記録の壁はHONDAを初めとする
日本メーカーの技術陣にとって聳え立つ巨峰でした。
しかし、
HONDAは一人、
違うフィロソフィーを持っていました。
それは、
技術で日本一になる事でした。
そして、
本当の日本一は世界一になって初めて達成されると言うとてつもない考え方でした。
そしてその
具体的挑戦策として
HONDAが提示したのは
450ccの排気量で650ccの英国車を超える
出力を誇る
CB450でした。
HONDA CB450 ( 1965年式 DOHC4バルブ450cc 43ps/10000rpm )
( 上図のバイクはセパ・ハンを装備していますが、これはオリジナルではありません。 )
また、
性能的にT120より僅かに劣っていますが
CB450の目標はT120ではなく、
TR6 だったためです。
このバイクの特徴は
バルブ・スプリングに
トーション・バー・スプリングを使った事でした。
通常のコイル・スプリングでは必要とされる高回転、
10,000rpmに追従出来なかったのです。
そう、このバイクは
より小排気量(450cc)でより大排気量(650cc)のバイクに勝る出力を得るために
ボンネビルより高回転までエンジンを廻す様に設定されていたのです。(ボンネビルは
6,500rpm)
性能的には完全にボンネビルを打ち負かしたCB450ですが、
商業的には失敗作でした。
高性能車が好きなはずのアメリカ人はどうした訳か、
CB450よりボンネビルを選んだのです。
HONDAは
徹底的な市場調査と試作車による
大陸横断実地試験を行いました。
その結果、判ったのはアクセルを開け続けて得られる
高回転による高出力はアメリカ人の嗜好に合わないと言う事でした。
適度なアクセル開度で
必要な高出力を得るにはトルクを太らせなければなりません。
馬力とは
トルクとその時の
回転数を
掛けたものです。
そして、トルクは
排気量が
同じならほとんど、どのエンジンでも同じ値を示すのです。
回転数を上げずに馬力を増やすには・・・
排気量の増大しかありませんでした。
その結果、生まれたのが
伝説の名機 HONDA CB750K0 です。
HONDA CB750 K0 ( 1969年式 OHC 8バルブ 4気筒 749cc )
ほぼ時期を同じくして
kawasakiも ニューヨーク・ステーキの暗号名で呼ばれた
Z1 を発表しました。
kawasaki Z1 (1972年式 DOHC 16バルブ 4気筒 900cc )
こうして
2気筒の全盛時期は終了し、
多気筒の時代に移って行きました。
(
この項続く )
(クラシック・バイク・ブログ
「クラシックで行こう!」 はこちらから )