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「峰風」とともに

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425, ドウカティ・メカニカ社の誕生

クッチョロ・エンジンは1950年代に入る前に年間6万台以上を生産するまでに
なっていました。
しかし、人々は本格的なオートバイを求める様になって来ました。
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1950年に60スポーツと言う本格的なオートバイを発表。
1952年には上級モデルのドカティ98を加えました。
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但し、クッチョロエンジンをプレス・フレームに搭載した新型車は一応の成果は見られましたが
さしたる特徴もない平凡なものでした。
 同時期に開発されたスクーター(クルーザー175)は当時としては新機軸の自動変速機やセル始動など新システム盛り沢山でしたがまだ技術的に未熟だった当時のDUCATIには懲り過ぎの感があり、ユーザーに認知されず失敗作となりました。
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DUCATIが宣伝活動として幾つかのレースに参加する様になりました。
 まず、手始めにクッチョロが過去のスピード記録をことごとく塗り替えました。
手応えを感じたDUCATIは数週間後に新たに開発したマシンでミラノ~ターラントの長距離耐久レースに参加しましたが、DUCATIの6台の参加車すべてがレース工程の半分も走れず、リタイヤすると言う大失敗を演じる結果となりました。
 このレースはオートバイ購買層に注目されていたレースの一つでした。
当然、販売に影響が出てDUCATIのオートバイは売れなくなりました
DUCATIには電気部門とオートバイ部門がありました。
幸い、電気部門の業績は順調に延びており、電気部門はドウカッティ・エレットニカ社としてオートバイ部門はドウカティ・メカニカ社として2つの会社として出直す
決定が1953年に下されました。
不調のオートバイ部門の社長に任命されたモンターノ氏は、
早速、会社の苦境を救ってくれる技術者探しを始めました。
by SS992 | 2009-01-30 16:50 | メカ談義